アントニオ猪木をさがして (2023):映画短評
アントニオ猪木をさがして (2023)ライター2人の平均評価: 2
誰も見つけられない猪木という巨人の存在。
全ての猪木信者は、死してなお彼という存在がなんだったのかを探っている。そこに関していささか隔靴掻痒の感はある。まず彼の現役時代の試合がほとんどないのが痛い。三原光尋によるドラマシーンなどまったくもって不要である。新日の後輩に関してもオカダ・カズチカなど本人とほとんど喋ったことのない人物にインタビューする時間があればもっと話を聞くべき人がいるではないか。ただ、猪木の写真を撮り続けたは写真家・原悦生であるとか、後輩ではあっても道場から自ら外させた猪木のパネルを戻すことにする棚橋弘至であるとか、マサ斎藤との巌流島戦を講談としてやってのける神田伯山とか感慨深い箇所は多数あるのだが。
ドキュメンタリーというよりバラエティ
さまざまな取材を行っているものの構成が散漫で、有名な猪木イディオムは撫でているものの、「プロレスラー・アントニオ猪木」も「人間・猪木寛至」も「名状しがたい何ものかであったアントニオ猪木」も掴むことができない。枝葉末節はあるが幹がない。ドキュメンタリーというよりバラエティに近い。時系列を少しずつズラしているせいか、アントニオ猪木がその時代に何を考えていたか、その時代の人々にどう受け入れられていたかも正確に描かれない。挿入されるミニドラマも意図不明。何より問題なのは、10年後、20年後に本作を見た人が、アントニオ猪木という人物がいかに偉大で、何を成し遂げた人物かがまったくわからないところにある。