斬、 (2018):映画短評
斬、 (2018)ライター5人の平均評価: 4.4
武器の原点に集約して描く、正義の危うさと非暴力を貫く困難さ
『野火』を経た塚本晋也が、人間の業深き暴力を突き詰め、一本の刀にたどり着いて、時代劇の定型を破壊するラディカルな映画が生まれた。武器の原点を介し戦争の根源を描く。大義のための暴力を疑わないヒロイックな古武士。人を殺めることに抵抗を抱く腕の立つ若者。彼らを主軸に、脅威としての粗暴な浪人集団や、戦を夢見る一本気な少年、そして争いを否定しながらも、いざとなれば復讐の情念をたぎらせる女性が配置されている。今という不穏な状況を反映させた構図は、専守防衛の名の下にバランスを逸す。殺陣はカタルシスの対極にある。凄惨な人殺しをまざまざと見せつけ、正義の危うさと非暴力を貫くことが困難な時代へ警鐘を鳴らす。
塚本作品の魅力を凝縮した80分
塚本晋也監督にとって初の時代劇だが、主人公は侍でも浪人でもなく、“刀”。そして、“暴力に対する非暴力”というテーマ。つまり『鉄男 TETSUO』から『野火』まで、塚本作品の魅力を凝縮した80分といえる。故・石川忠の遺志を継いで監督自身が編集した劇伴も違和感なくエネルギッシュだが、ここに池松壮亮と蒼井優という、近年の日本映画界を代表する俳優がスパイスとして注入され、さらなる化学反応を起こすのである。『彼女がその名を知らない鳥たち』後だけに血気盛んな娘役は無謀にも思えた蒼井は、十年以上前の躍動感を感じさせ、対する池松も同じ時代劇であるはずの『散り椿』とは異次元の存在感を放っている。
斬ることへの疑問、そして性欲からも目を逸らさない
前作『野火』とのつながりを感じるのは仕方ないだろう。剣の達人である主人公が、相手を斬ることや復讐への疑問を保ち続ける「非暴力」のテーマは、戦争への反旗であり、生死の境と深い森の情景の対比も似ている。塚本監督本人の意思とは別に、一人の作家の創作の流れとして、この連関性には観る側の思いが反映される。
ぎっくり腰で思うように殺陣ができなかったという塚本監督は、しかし得意の編集テクニックと音響効果で、刀と刀、その使い手同士のぶつかり合いに、見事なダイナミズムを与えることに成功した。闇に浮かぶ敵の描写など、監督らしい怖さの表現も鮮やか。そして若き浪人の欲望処理など、時代劇として斬新な演出にも感動した。
灼熱と、身体と、金属と
炎と、人間の身体が与える打撃が、ある種の鉱物に作用を及ぼして、"斬る"ことに特化した金属の形態である"刀"を創り出していく。そのときの熱、身体、金属が渾然一体となったさまがスクリーンに立ち現れる。となれば、これはもう塚本晋也監督の初期代表作である「鉄男 TETSUO」のひとつのヴァリエーションだという見方も可能なのではないか。
そう見えるのは、音楽のせいでもある。音楽は「鉄男 TESUO」などの塚本映画の常連、石川忠。彼は本作の制作中に死去したが、監督が彼の作品と自宅にある全て曲の断片を聞き、映画に音を貼っていったという。塚本晋也による石川忠の音楽が、大音量で鳴り響く。
一目瞭然の傑作
塚本晋也の全作品中、これを最高作に挙げる人は結構多いんじゃないかと思う。彼の特異な個性が最もミニマムに整理され、高密度に凝縮しており、風刺や思考の刃が普遍と現在の両方に向いているからだ。無駄のない80分の完璧さは美しいという印象すらもたらす。
小さな村に渦巻くのは、庶民と権力とヨソモノ(移民)――この三点の緊張からなる負の連鎖。『鉄男』における「ヤツ」のようなメフィストフェレス的武士を塚本自身が演じ、池松壮亮を翻弄する。これは彼が9.11以前まで描き続けた鋼鉄の寓話の反転であり、『野火』から連なる暴力のルーツの探究だ。人斬りアクションが無惨に終始する意味では「アンチ時代劇」とも言えるだろう。