小さいおうち (2013):映画短評
小さいおうち (2013)ライター3人の平均評価: 4.3
『永遠の0』への大いなるアンチテーゼ
今を生きる若者が老人の追憶を通し、戦争へと向かった時代の真実を知る。骨格は『永遠の0』に似ているが、テーマは対照的だ。主役は、坂の上に建つモダンな家屋に住む小市民。排外的なナショナリズムが強まった昭和初期に、密かに咲いた道ならぬ恋。“小さな家”のささやかな秘密も罪も希望も、全ては“大きな歴史”に踏み潰されていく。
あの頃の日本に美しき幻影を追い求め、やさしい言葉で勇ましく叫ぶ輩がのさばる危うい時代に、山田洋次は「長く生き過ぎた」と嘆息しながらも、いつか来た道を辿ってはいけないと厳かに警鐘を鳴らす。戦時下の営みに想像力を刺激され、悔恨の念にかられた者だけが、さめざめと泣くであろう。
見事なまでの山田洋次節に対する驚嘆
恐らく多くの熱烈な中島京子の原作のファンにとっては、冒頭から戸惑いを感じるに違いない。夫婦の関係性や同性愛の要素、タキのある行為をめぐる理由など、原作のキモと思われる部分の設定や解釈が大きく異なる(またはそう考えられる)からだ。
映画はより戦争が一般市民の生活に落とす影=閉塞感を強調し、”家族”という社会の最小単位に重きを置いた翻案となっている。大筋は変わらず原作のエッセンスを汲んではいるが、その肌触りはかなり違う。最後まで観て改めて、冒頭の戸惑いは見事なまでの中島京子の世界から山田洋次節への変換に対する驚嘆へと変わる。それでこそ映画化の意味もあるというものだろう。
キナ臭い時代の眩い時間――山田洋次の『風立ちぬ』か
山田洋次に欠いているのはセックスだとよく言われる。しかし今作は不倫、同性愛的な思慕を含む三角関係、脚フェチなど、谷崎的なモチーフで“人間の業”に突っ込む。こんなに艶めかしい山田作品は初めてだろう。
同じ意味で強い印象を残すのは橋爪功演じる遊び人の作家だ。戦争に突入していく時代の中、「僕みたいなイイカゲンな人間が生きにくい世の中は嫌だね」的なことを呟く。不真面目の肯定。巨匠はここまで踏み込んで「自由」を訴えた。
今の日本は窮屈な世の中になりキナ臭い気配を増している。そこに放たれた本作は失われた眩い時間と諸行無常を描く痛切なリアル・メルヘンとして、宮崎駿の『風立ちぬ』に相当する傑作ではないか。