あの日のように抱きしめて (2014):映画短評
あの日のように抱きしめて (2014)ライター4人の平均評価: 4.3
見ないフリはいつまでもできないもんだね。
『めまい』を思わせるボワロー=ナルスジャック系のニューロティック趣味に、安部公房「他人の顔」を併せたようなミステリだが、面白いのは罪の意識の大小により他人のアイデンティティの確認に差異が出るという“設定”。といっても説明可能な部類のものではなく、あの時代を生き抜いた人間がそれぞれ蒙った心身の傷の深さを観る者に生々しく想像させる心理劇的システムになっているのだ。本作で最高に効いてくるのが“優しくささやいて、愛は儚い”と歌う「スピーク・ロウ」。ドイツからアメリカに亡命したクルト・ヴァイル自演のレア音源含め冒頭から形を変えて何度もリピートされてドラマを引っ張っていくのだ。
アウシュヴィッツの巨大な悲劇から“語りの美”を創造する手腕
ヒッチコックの『めまい』は、応用形が最も多数作られている映画の一つだろう。「同じ(顔の)女が出てくる」もしくは「入れ替わる」というヒロインの二重化によるミステリー。そして本作は、戦争という決定的な断絶を挟む事で見事なヴァリエーションを作りあげた。
強制収容所で顔を無残に破壊されたユダヤ人の女性が、整形手術を受けて夫と再会する。ポイントは「夫が気づかない」ことだが、これを強引と取るか、アイデンティティを絶ち切った歴史的抑圧の象徴的な表現と取るかで評価は変わってくるだろう。
筆者は後者派で、クルト・ヴァイルの「スピーク・ロウ」など意味と意味が重なり合う語りの美に酔い痴れた。忘れ難い珠玉の1本。
国民が被害者と加害者に分かれた戦後ドイツの深い傷
ホロコーストから生還した女性が最愛の夫と再会するものの、妻が収容所で死んだと疑わない夫は彼女を本人と気づかず、そればかりか死んだ(と思っている)妻の遺産を受け取るための身代わりとして彼女を利用しようとする。
原作は’65年作『死刑台への招待』と同じ。あちらは夫を欲深い悪人に仕立てた完全犯罪サスペンスだったが、こちらは生きるために過ちを犯さざるを得なかった男として描いており、戦争によって被害者と加害者の側に分かれてしまった夫婦の哀しみをあぶり出す。
お互いに過去の悲劇を直視できないがためにすれ違う妻と夫。それは戦後ドイツ社会のジレンマそのものであり、いまだ癒えない深い傷なのかもしれない。
戦争に蹂躙された夫婦の複雑怪奇な心理が胸に迫る
ナチスの銃撃で顔に傷を負った女性ネリーが収容所から戻る冒頭から不穏な空気が流れる。彼女の態度にはなぜか“生還”の喜びや希望が感じられず、それが興味をそそる。やがて整形手術で元通りの顔に近づけたネリーは、彼女と気がつかない夫が持ちかけた驚くべき計画に加担する。計画実行の過程で何度も苦い思いを味わうネリーと夫が記憶や事実を都合良くすり替える心情が痛い。お互いに「裏切り」を認めれば、そこには絶望しか残らないのだ。戦争に蹂躙された夫婦の複雑怪奇な心理が胸に迫る。しかし厳然たる事実をつきつけられたら? ネリーの甘美な復讐とも、切ない告白とも受け取れるラストまで一気呵成に見せる監督の手腕に脱帽。