ジャニス:リトル・ガール・ブルー (2015):映画短評
ジャニス:リトル・ガール・ブルー (2015)ライター2人の平均評価: 4
痛みが今も生々しい
撮影されてから長い年月を経た今も、フィルムに映し出される痛みが、生々しさを失っていない。映画はその痛みを、この若く死んで伝説となった女性固有のものではなく、孤独というものから生まれる普遍的なものとして映し出す。
その孤独は、彼女独自の音楽を生み出したのかもしれないが、その音楽が評価された後も、彼女の痛みは決してなくなることはない。当時の彼女の家族や故郷の同級生たちの、彼女への拒絶の強さ。元バンドのメンバーたちの現在の発言に、彼女への愛は感じられない。彼女は、歌っている間だけ、痛みを感じていないように見える。そんな若い女性の姿がフィルムに焼き付けられている。
伝説の中に置かれた「リトル・ガール」の物語
このドキュメンタリーはアーティストの魂を不用意に触らぬよう繊細に、かつ果敢に「物語」を紡ぎ出す。例えばビリー・ホリディの人生が女性や人種の差別という大文字の「歴史」で補完されがちなものだとすれば、本作のジャニスはスクールカーストに抑圧され、ダメ男に振り回され…という個的な環境を強調する。それは彼女と我々を理解や共感の回路で接続する。
ジャズやブルースと同様、ロックの黄金期も神話の領域に入った。しかし一度再生すれば、ジャニスの歌は「今ここ」に或る。その親密さに寄り添った映画だ。同時に『AMY』とは異なり追体験のロマンティシズムを含んでいるのは、キャット・パワーの美しい朗読が象徴していると思う。