女は二度決断する (2017):映画短評
女は二度決断する (2017)ライター4人の平均評価: 4
「眼には眼を」を乗り越え憎しみの連鎖を断ち切るひとつの可能性
むごたらしい爆破テロで夫と子を奪われたヒロイン。法は犯人を裁けなかった。怒りと悲しみの矛先はどこに向かえばいいのか。選択肢はいくつもあった。上告する、自分を誤魔化して生きる、命を絶って苦しみから逃れる、犯人を殺し溜飲を下ろす、さらに…。ヒロインが辿り着いたひとつの答えを、倫理的に許されないとジャッジすることは容易だが、それでは、「眼には眼を」を乗り越え、繰り返される憎しみを自らの手で断ち切ろうと苦悩した心の旅を、何も観ていなかったことになる。容認できないまでも深く理解できるのは、負の情念に苛まれたことがある証か。彼女の決断には、理性か感情かという表層的な二元論を超えた、境地と可能性がある。
是非を問う決断、見る人の受け止め方が知りたい
移民をめぐる軋轢に端を発する人間ドラマでいちばん驚いたのが、完全無欠な有罪を求めるドイツ法廷のありかた。トルコ移民である被害者の過去や家族を失ったカティヤの悲しみを紛らわす行為をネチネチと責めるのは定番としても、捏造された証拠を “完全に嘘と言い切れない”との理由で採用するとは!? ヒロインに肩入れする観客に「正義はどこに?」と思わせる狙いだろうが、法律が機能しない場合には被害者遺族はどこに怒りや悲しみをぶつければいいのかと考えさせられた。誰だって人生でいろいろな決断をするわけで、是非を問うカティヤの決断を見た人自身がどう受け止めるかにも興味ある。ダイアン・クルーガーの熱演が光る。
主題(と感情)を丸ごと抱えて、定型の向こう側へ
ファティ・アキンが初期に扱っていたドイツにおけるトルコ系移民の問題に再び旋回した。同時に世界像は刷新されており、この監督には毎回本当に驚かされる。モチーフは極右組織NSUの連続テロ殺人事件。主題は監督も名言している通り「復讐」だ。それは法廷なのか、『狼よさらば』式の私刑なのか?
ネタバレという軽い言葉が似合わぬ映画だが、事前情報は最小限に。これは「復讐」という行為に無邪気ではいられない時代の傑作。答えや浄化ではなく、問いをさらに深化させて観客に突き返す。映画が終わった後、我々現実の問題が始まる。音楽はジョシュ・オムで、クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジほか既成曲の使い方も相変わらず巧み。
現代のヘイト問題を描く、絶望的に辛いスリラー
自らもトルコ系ドイツ人であるファティ・アキン監督は、「愛より強く」「そして、私たちは愛に帰る」などで、ドイツに生きるトルコ系の人々を描いてきた。ネオナチによるテロを発端にするこのスリラーは、とりわけ暗く、救いようがないくらい辛い作品だ。ファティは、近年、ドイツで、ドイツ以外の血筋の人々を狙ったテロが多発している事実に想を得てこの物語を書いたという。トランプのアメリカやイギリスのEU離脱など、ナショナリズムの高まりに多くが不安を抱える今だけに、不安を新たにさせられ、絶望的な気持ちにもなった。愛する夫と息子を無意味な暴力のせいで失った主人公を、ダイアン・クルーガーが名演する。