ポップスター (2018):映画短評
ポップスター (2018)ライター7人の平均評価: 2.7
一筋縄ではいかない作風はナタポー映画というより監督の味か?
銃乱射事件で生死の境をさまよったトラウマと、ポップスターになった後の再起。一人の人生の設定として超ドラマチックだが、W・デフォーの思わせぶりなナレーションもあり、全体の構成・演出は独特。主人公の心情のごとく、観ている側にやや混乱も与えるが、監督の映画として捉えれば、その意図も(勝手に)納得。『サンダーバード』主演など子役から撮る側に転身し、なお自分の方向性にもがき続ける姿勢が、野心的作品を追求させたのかも。
見せ場となるステージが、タケモトピアノCM的(元をたどれば『オール・ザット・ジャズ』)な、ナタリーの愛する夫による振付だったり、彼女のやや過剰な演技など、心ざわめく珍味なテイストも多発。
J-Loもどきのポートマンはクライマックスまでお預け
ポスターから受ける印象とは違い、ナタリー・ポートマンがJ-Loもどきのパフォーマンスを見せるのは最後の10分ほど。彼女が出てこない前半は、近年のアメリカ(学校での銃撃事件、9/11)を語る社会的な映画かとも思わせるし、ダークな「スター誕生」のようでもある。ようやく彼女が出てきてからは、多くのお荷物を背負うセレブの苦悩の物語に。そういった複数の要素がうまくまとまっていないために、やっと彼女のライブシーンになると、これまた突然な感じがしてしまう。しかし、夫が手がけたコレオグラフィーをこれだけ立派にこなせただけでも、ポートマンにはこの映画を作った意味があるはず。実際、見どころはここだ。
90年代以降の音楽シーンの変遷を織り込んだ脚本が面白い
コロンバイン高校の虐殺を彷彿とさせる銃乱射事件で奇跡の生還を遂げた繊細な少女が、たまたま音楽の才能があったことからポップスターへと祀り上げられ、いつしか煌びやかなセレブの世界と商業主義に染まりきっていく。その大人になったヒロインを演じるのがナタリー・ポートマンだ。悲惨な暴力事件もセレブのスキャンダルも一緒くたに扱い、センセーショナリズムばかりを煽る現代のメディアに対する批判を込めた風刺劇だが、いまひとつポイントが絞れていないようにも感じる。むしろ、フィクションの中に90年代以降のポピュラー音楽シーンの変遷を巧みに織り込んだ脚本が面白い。洋楽ファンなら思わずニヤリとするはずだ。
セレブはつらいよ、なんでしょうね。
スターの葛藤や名声依存をスタイリッシュに描く異色ドラマ。コロンバイン高校乱射を思わせる事件や世界同時多発テロなどをヒロインの人生に絡ませるが、主軸は幸運によってスターの階段を登った少女の選択あれこれ。うっかり妊娠や飲酒問題を抱えたヒロイン像は、B・スピアーズに代表される「人生山あり谷あり」アイドルの揶揄? W・デフォーのまことしやかなナレーションが妙におかしい。ギャクなの? 脱アイドル俳優を果たしたブレイディ・コーベット監督がL・V・トリアー監督やM・ハネケ監督の影響を受けているのは明白だが、意地悪度が薄く、インテリぶらない作風は好感が持てる。チョイ役のダメ美男子は、L・ニーソンの息子でした。
いろいろと空回りとムダ遣い
『ティーンスピリット』のような王道のサクセスストーリーを期待すると、肩透かしを喰らう“問題作”。コロンバイン高校銃乱射事件がモデルな冒頭のエピソードを始め、ガガ様風トップ・アーティストに次々襲い掛かる災難は、それなりに衝撃的に見える。だが、冒頭を除き、緊張感のない演出や的外れなカメラワーク、編集によって、台無しに。しかも、ヒロインの中年時代を演じるナタリー・ポートマンより、少女時代と娘の二役を演じるラフィー・キャシディの方が魅力的という有様。また、いちいち挿入されることで、話の腰を折るウィレム・デフォーのナレーションやジュード・ロウの使い方など、ムダ遣いだらけなのである。
神経をすり減らす、21世紀の『オープニング・ナイト』
人の死という現実に触れたアーティストが精神をすり減らしていく、そんな展開にジョン・カサヴェテスの『オープニング・ナイト』を連想した。ある意味、その21世紀バージョン。
ヒロインのセレブ色が濃いのは理由のひとつ。それゆえに感情移入しづらいのだが、エンタテイナーの狂気を俯瞰させ、ひとつの人間ドラマとして美しく完結させた点がイイ。
『ブラック・スワン』とは言わないまでも、神経衰弱ぎりぎりのヒロインを作り上げたN・ポートマンの熱演は見どころ。クライマックスの強烈なパフォーマンスは、やはり『オープニング・ナイト』のジーナ・ローランズをほうふつさせる。
"ポップ"が生まれて向かうところ
"ポップ"についての一考察。"歌""歌い手"が、個人を超えて多数の人々の間に伝播して"ポップソング""ポップスター"になる。そして、"表層だけで一人歩きするもの”になり、”人々がその表層の背後に勝手に意味を見出すもの"になり、それが人々を踊らせる。このポップ観は古典的だが、それを2つの性質の異なる銃乱射事件、ウィレム・デフォーによる古典文学の朗読のような格調高い語り、ナタリー・ポートマンが体現する現代のディーヴァ、という異質物の組合せで描くところがユニーク。そのうえで、ディーヴァによるポップなステージを出現させ、観客にポップに踊らされることの快楽を体験させるという仕掛けになっている。