私は確信する (2018):映画短評
私は確信する (2018)ライター3人の平均評価: 3.7
思い込みと正義感は混ぜたら危険
フランスで実際に起きた未解決事件の裁判を描いた法廷サスペンス。3人の子供を持つ母親が忽然と姿を消し、大学教授の夫が「殺人事件」の容疑者となってしまう。普通ならば、果たして彼が本当に犯人なのか?が焦点となるところだが、しかし本作の場合は肝心の証拠や遺体が一切存在しないうえ、そもそも殺人事件なのかすら定かでないにも関わらず、「絶対にこいつが犯人だ」と決めつけた関係者や警察、マスコミが「正義感」に駆られ、卑劣な手段を用いてまでも被告を有罪にしようと暴走していく姿を浮かび上がらせていく。いわば思い込みの恐ろしさ。それは被告の無実を信じる側も無縁ではないところにハッとさせられる。
フランスの司法制度に興味を持ちました
フランスの法廷ドラマを見たのはこれが初めてで、フランスの司法に興味がわいてきた。まず主人公ノラの設定に驚く。彼女は妻の殺害容疑で告訴された大学教授の無罪を確信し、第二審で弁護士に協力して確信を証明しようと奔走するのだ。審理無効になりそうでヒヤヒヤした。法律とは無縁ながらも信念を持って証拠を探り、デマゴーグの不正を暴くノラはまさに、フランス版エリン・ブロコヴィッチといってもいい。弁護士の最終弁論も含めて、正義を感じる。しかしノラと検察側の確信が真逆だったこと、検察側がそう考えるに至った経緯が明らかになっても、真実は闇の中。裁判できっちり白黒がつくというのは、ハリウッドが作り上げた幻想なのだね。
ヒロインと一緒に、傍聴席で息を凝らしてしまう
ヒロインと一緒に、裁判にのめり込んでしまう。この映画は、観客自身がヒロイン同様、裁判で自分の仮説が証明されるのを見たいと強く思ってしまうように作られているのだ。ヒロインは、弁護人のために事件関係者の250時間に及ぶ通話音声を文書化するのだが、観客自身も彼女と一緒に音声を聞きながら、仮説を立ててしまうのだ。そして、その仮説は正しいのかを知りたくて、彼女と一緒に裁判所の傍聴席に座った気になり、質問に答える証人の口元を、息を凝らして見つめてしまう。映画は、そうした心理の危うさを指摘し、裁判で最も重要なことは何なのかを考えさせもするのだが、同時に傍聴席のスリルと興奮をたっぷり味あわせてくれる。