紙の月 (2014):映画短評
紙の月 (2014)ライター5人の平均評価: 4
闇への失踪ではなく光への疾走。堕ちるほどに輝く宮沢りえ礼賛
平凡な女性の不倫と横領。堕ちていくほどに輝き、解き放たれる快感。愁嘆場を何度もかわし通俗へ向かわず、映画的見せ場を用意する演出の妙。サタンの囁きを奏でる大島優子、モラルの鎧で縛る小林聡美、母性本能をくすぐる池松壮亮。すべては、空虚で暗鬱な宮沢りえが生彩を帯びていくために存在する。時代や社会に弄ばれ、奇しくもバブル崩壊直後に幸薄きイコンとなった元アイドルが、広告業界出身の映画作家の手によって、金銭を中心に回る通念を打ち砕く一点突破劇として観ることも可能だ。紙幣という冷たく光る神、いや、紙の月を指で消去する場面が切なく美しい。彼女が全力で走る姿、それは闇への失踪ではなく光への疾走である。
『桐島~』以後の自信のほどはうかがえるが。
どう転んだって破滅にしか繋がらない目先の快楽を選ぶ主人公。ここに爽快さを感じるかが本作を気に入るか否か、そして最後の疾走に拍手を送れるか否かの分かれ目だと思うが、僕にはやはり愚かすぎるとしか思えぬ。ここぞという場面での過酷なスローモーションにも一歩も引かぬ、性根の座った宮沢りえの演技力なくして成立したかも疑わしいし、回りくどいだけで説明になっていない少女時代のエピソードも不要だろう。そんな僕のような観客をも終始映画に引き留めてくれるのが、崖っぷちのお局をハードボイルドに演じる小林聡美と、コメディエンヌの才を軽々と発揮する大島優子。少なくとも、この二人が絡むシーンは輝いている。
“逃亡者”宮沢りえのシャープなキャラに見惚れる
過去に囚われ、仕事に囚われ、家庭に囚われるヒロインだから、逃げようとするのは必然的だった。そんな逃亡者としてのドラマに見応えがある。
逃げるというと後ろ向きのイメージがあるし、横領という行為自体も犯罪なので悪いイメージがつきまとう。しかし一方で、“囚われ”から解き放たれた自由な人間性が光っているのも事実。反対側に突き抜けた者の清々しさや切なさが、何とも眩しい。
何よりスゴいのは主演の宮沢りえだ。疲れた中年女性でもあるが、妖婦にもなる。笑顔を見せはするが、目だけは笑っていない。逃亡者のスキのなさが、そこにしっかり表われていた。
真面目に生きることの息苦しさ
地味で真面目な銀行員の主婦が、年下の男に入れあげて大金を横領する。ちょっとした出来心から転落していく人間の犯罪劇はありきたりも思えるが、しかしリアルな生活感を醸し出す宮沢りえの佇まいが十分すぎるほどの説得力を物語に与えている。
注目すべきは、彼女の前に立ちはだかる女性より子の存在だろう。厳格なまでにルールに則り、隙のない正論の鎧で身を固めた彼女は、主人公の梨花が息苦しさを覚え、疑問を抱き、無意識のうちに捨て去ったもの全てを象徴しているように思える。
お手本とされる窮屈な枠組から解き放たれた結果、社会から逸脱した犯罪者となってしまう皮肉。そこがなんとも痛快。真面目とは実に不自由なものだ。
女優3人の演技合戦も見どころ
映画的に、女性銀行員の横領事件というネタは、あまりにありきたりで、面白味がないかもしれない。だが、それが吉田大八監督の手にかかると、見事なまでのハードボイルド・サスペンスになる。ヘタすれば、同じ犯罪劇である『クヒオ大佐』の二の舞になったところが、『桐島、部活やめるってよ』を経た今の吉田監督だから、しっかりと“人間”が描けているのである。しかも、原作には登場しない先輩・後輩の同僚キャラでヒロイン・梨花を挟んだことで、よりドラマティックになっており、3人の女優の三者三様の芝居も面白い。ただ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「Femme Fatale」は残念なぐらい作品のテイストに合っていない。