Fukushima 50(フクシマフィフティ) (2019):映画短評
Fukushima 50(フクシマフィフティ) (2019)ライター5人の平均評価: 4
原発事故を思い出すだけでいいのだろうか?
悔しいかな、HBOドラマ『チェルノブイリ』との格差を感じざるを得ない。その差は何か。原発事故を人類への教訓とすべく当時何が起こったのかを被爆の脅威も隠すことなく事実を検証したドラマに対し、本作は事故の対応に当たったのも一人の人間であるという人間ドラマの方にフォーカス。彼らの決死の行動に敬意はあれど、世界から見たら放射能汚染を拡大させた当事者であり、そもそも全く解決していない問題だ。ここからどう歩むべきか。ラストの一文でまとめて良いのか疑問だ。ただ新型コロナウイルスの対応を巡る政府の動きを見ながら、あの日から何も学んでいないことを思い知る良い機会となったことは間違いない。
風化させないためにも。
福島第一原発で起こった史実ベースということで、HBOドラマ「チェルノブイリ」と比べてしまいそうだが、こちらは、ほぼ原発の中央制御室と緊急対策室、そして政府や基地の会議室のみで展開される“お仕事映画”という、いかにも今の日本映画的エンタメとして魅せ切る。蛇足に見えるラストはさておき、単なる英雄譚や美談で終わっておらず、飛び交う専門用語もしっかり解説アリと、なかなか好感度高し。どこか古臭い演出や妙に暑苦しい芝居に関しても、明らかに幅広い観客層を狙ってのものなので、目くじらを立てるほどでもなし。まるで、ゴジラが登場しそうな「海外版予告」に引っかかった洋画ファンも観て損はなし。
勇気と覚悟と未来と希望と
あの日のあの時から始まる物語。正面から本当のことだけを描くことに挑み、異常な程の臨場感を創り上げています。そのため見るのがつらい人もいるでしょう。だから、気軽に薦めることを躊躇してしまいます。それでもやはりこの映画は見て欲しいという思いが強くあります。作り手の覚悟、演じ手の勇気を感じることができる映画です。未来について考えることができる映画です。希望を感じることができる映画です。佐藤浩市と渡辺謙の事故を風化させない、未来へのステップにするという強い気持ちを込めた熱演が作品を引っ張ります。
9年前も、今も変わらない、持ち場を守るプロの意識
東日本大震災による原発事故に立ち向かった作業員たちにスポットを当てる本作。核となるのは彼らの強い職業意識だ。
余震の恐怖と戦いながら、汚染された原子炉内に入っていく男たち。苦渋の決断で危険な仕事を彼らに指示し、一方では無茶を要求してくる上層部に抵抗する現場の指揮官。仕事を受けた以上、自身の責任は果たす。そんな彼らのプロの姿勢がドラマの熱となる。
物語を俯瞰すると都合よく進む場面があるのは気になるが、実話であることを踏まえれば許容範囲。重要なのは、持ち場を守り抜く使命感。9年前の物語ではあるが、現在進行でウイルスと戦う現場の人間の存在にもリンクする。そういう意味でも今、見るべき映画だ。
ひるまず、まっすぐに向き合った気概が、異例の臨場感に結実
もう9年、まだ9年ということで、冒頭から「あの日」の記憶が蘇るのは、異様なまでの臨場感が映像全体を支配するからか。その後、たたみ込むような展開は、こちらの個人的記憶を搔き消すかのようで、かつて体験したことのない緊急事態の渦中に観客を放り込むことに成功した。
『シン・ゴジラ』のように余分な人間ドラマを排除する選択もあったろうが、現実と地続きという点で、避難住民など俯瞰的視点は「記録」として不可欠。若松監督の前作『空母いぶき』で明らかに浮いていた「現場外」が、今回は過不足なく溶け込む。何ヶ所か疑問に感じる瞬間もあることはあるが、作品全体の志の高さと、演じ手の真摯なアプローチで、それらも霧散する。