運び屋 (2018):映画短評
運び屋 (2018)ライター5人の平均評価: 4
俳優イーストウッドの、実に見事なスワンソング(多分)。
ドラッグの運び屋となった男の物語だが、クライム・アクションにあらず。時代から取り残される老人の悲哀や家族との軋轢といった普通の人々が共感できるエピソードが多い人間ドラマだった。主人公アールは無事故無違反の慎重なドライバーだが、人生の最後の最後で間違った道を選択。そんな彼の姿はまさに、我々が人生という地図でどの道を選ぶべきかというナビとなるのだ。演じるのが「年寄りの冷や水」なんて言葉が当てはまらないC・イーストウッドなので、カルテルを向こうに回してのドンパチがあってもおかしくはないが、実話を優先して枯れた老人を円熟味豊かに演じている。彼もきっと最後の作品を誇りに思っているはず。
こんなイーストウッドが見たかった!
高齢の巨匠イーストウッドが監督だけでなく久々に主演も務めるのだから傑作の予感しかしないが、これは期待以上だ。
『トゥルー・クライム』のダメ家庭人にして仕事人間、『目撃』の軽妙な犯罪者、『グラン・トリノ』の老頑固者と、これまでの仕事ぶりが重なる。『ブラッドワーク』ではセリフひと言で語られた携帯電話依存批判に踏み込む点もアナクロ派の(?)イーストウッドらしい。
ファンとしてはこれだけでお腹いっぱいだが、一観客としても美に酔った。家族への贖罪を盛り込んだユーモラスで人間的なドラマはもちろん、それに寄り添う映像も端正で味わい深い。ユリ畑に始まり、ユリ畑に終わる物語、そこに何を見るだろうか?
演出も演技も、ここまでの「余裕」は神レベル
描かれる事件がいかに特殊でシビアでも、ここまで心地よく、快い気持ちにさせるのだから、映画というものは本当に不思議である。車がメキシコと行き来する映像の、なんと軽やかなこと! その場の空気に観客を一瞬で取り込む術は、さすが巨匠である。
主人公と家族の関係など、同じくイーストウッドが監督・主演を兼ねた直近の『グラン・トリノ』とのつながりを楽しみつつ、主人公の「もう何も恐れるものはない」潔さは神レベルに達し、そのうえで生きる歓びを謳歌する前向きさが作品全体に貫かれる。要所でイーストウッドの鋭い眼光がこちらの背筋を正すので、スマホとの格闘など老人ネタもあざとくならない。安定の演出力に恐れ入る。
現在89歳の主演監督作にしてこの軽やかさ
車が積んでいるものは警官に発見されればヤバく、目的地までの距離は長いが、空は晴れ、気温も快適、道路は空いていて、運転速度は自分の好み通り、カーラジオから流れる曲に合わせて思わず鼻歌が出る。イーストウッド演じる主人公が味わう、そういう時間が、映画の中をゆっくり流れる。
その時間が豊かで軽やかなのは、老いた主人公が肩から不必要な力を抜き、不要なこだわりを捨てているから。それだけでなく、自分の本当の望みを知り、自分が老人であることを言い訳にせず、硬い体を曲げて自分を変えようとしているからだ。そんな主人公が運転しながら味わう時間の心地よさを、画面を見ながら一緒に味わうことができる。
イーストウッド流『最高の人生の見つけ方』
実録モノやドラッグディーラーというと、どれだけヘヴィなテイストと思いそうだが、これが“イーストウッド流『最高の人生の見つけ方』”。プライベートで、いい父親になれなかったイーストウッド演じるジジイだが、娘(演じるは実娘アリソン)に徹底的に嫌われながらも、孫娘は大好き! ウィリー・ネルソンの「オン・ザ・ロード・アゲイン」を口ずさみながら安全運転し、遊ぶ金ができれば娼婦と3Pと、ガチでやりたい放題。テーマ的に『グラン・トリノ』と同じでも、ここまで違うアプローチで攻めてくるとは! そして、『アリー/スター誕生』を引き継いだブラッドリー・クーパーへの遺言ともいえる展開は胸に迫る!