ディナー・イン・アメリカ (2020):映画短評
ディナー・イン・アメリカ (2020)ライター6人の平均評価: 3.5
偽善的な社会に中指を立てまくる痛快ブラックコメディ
中産階級や富裕層が暮らすアメリカの風光明媚な田舎町で、社会不適合者の烙印を押された男女が出会って恋に落ち、偏見に満ちた保守的な地域社会に反旗を翻していく。現代のボニー&クライドと呼ぶにはあまりにヘタレな主人公たちだが、それだけに虐げられたマイノリティの怒りと不満も等身大でリアル。伝統的な良識や制度の建前に固執して差別やイジメなどの臭いものに蓋をし、「普通=アメリカ的」じゃないものを蔑んで排除しようとする偽善的な社会への逆襲は、それすなわちトランプ的な価値観へのアンチテーゼとも言える。『キック・アス』的なブラックユーモアも小気味良し!
最後には甘く、ときめく気持ちになる
パンクで、ファンタジーで、何より素敵なラブストーリー。ふたりがまだ出会っていない映画の最初のほうはダークで刺々しいのだが、ふたりが時間を過ごすうちに明るくなっていき、最後には、甘く、ときめく気持ちにさせてくれる。その意外性が、今作の最大の魅力。それを達成できたのは、主役のふたりが抜群にキャラクターにハマっていて、お互いとの相性がばっちりだから。一見、下品で相当に嫌な奴なのに、次第に共感させ、いつのまにか好きにさせられてしまうサイモンを演じるカイル・ガルナーは、とくに見事。3つの食卓を通じ、表向きは平和で幸せに見える家族でも中にはいろいろあるのだということを見せるのも興味深い。
保守的なアメリカ中西部にも多様性を!
保守的な田舎町では浮きまくる男女がパンク愛で結ばれ、共闘する姿がなかなか痛快。主人公のパティとサイモンはいわゆる負け犬で、二人のキャラ紹介ともいえる序盤はうんざりするほどのダメダメぶり。特にパティの不思議ちゃんぶりは痛いほどだが、鎮静剤が必要としか思えない荒れたサイモンと心を通わせるうちに輝いていく。物語が進行するに従って自信を持ち、平凡に思えた顔つきすらも可愛く見えるようになるパティのマジカルなこと。というか演じているエミリー・スケッグスの才能に一目置き、今後に期待だ。普通じゃないけど何?と開き直ったカップルに幸あらんことを祈る! そして、もう少し笑える場面が欲しかった。
パンクであれ! 美しきはみ出し者賛歌
低予算、トボケたユーモア、寓話性、そして切なさ……そんな米インディーズらしさが詰まった愛すべき好編。
ぶっきらぼうで皮肉屋の青年と、世間から浮いた女の子の恋物語は『バッファロー’66』を連想させる。パンクロッカーだった監督の実体験に基づいているとのことで、そこにパンクの要素を絡めた面白いつくり。3度ある家庭のぎこちない食卓の場面に、タイトルにも通じる風刺が見て取れる。
主演のふたりはどちらも個性が際立つが、とりわけヒロイン、E・スケッグスは見事。彼女が映画オリジナル曲を歌うシーンの美しさは、主人公サイモンがそうであったように、グッときてしまった。
ヒロインが歌う"自分の歌"が胸を打つ
監督は本作について、自分を形成した90年代のパンクシーンに捧げるラブレターだと発言。その言葉通り、90年代インディ音楽の誰もが自分の音楽を作るという精神と、それを実現する音楽に満ちている。音楽は『ナポレオン・ダイナマイト』のジョン・スウィハート。中でも、主人公パティが歌う自作の曲が素晴らしく、この歌はパティ役の女優が役になりきって歌詞を書き、監督自身が作曲したと聞くと、さらに魅力を増す。
ラブストーリーというより、それ以前の、人間が人間として認め合うことの物語。日々のディナーの席で家族からも仲間外れにされる主人公が、同じような人間に出会って力を得る。そして自分の歌を歌い出すのだ。
90`sの懐かしさを感じる
パンクでアブない覆面ロッカーと陰キャなメガネっ子なヒロインとの運命的な出会い。家族揃っての食事シーンがキーワードとなるなか、作り手が語るように『ナポレオン・ダイナマイト』テイストもちょいちょい見られるが、明らかにオマージュを感じるほど、キャラ造形も展開も“『バッファロー'66』×『ゴーストワールド』”。そんな90`sを感じる懐かしさもありつつ、冒頭15分の畳みかけるクレイジーな展開&下ネタに期待がかかるも、年齢不詳な2人のキャラに頼りすぎたか、肝心のライブに至るまでの中だるみは否めない。そんななか、覆面ロッカーとまさかの展開になるリー・トンプソンの登場は高まること必至。