フェラーリ (2023):映画短評
フェラーリ (2023)ライター5人の平均評価: 3.4
どん底の時期に垣間見る人間フェラーリのダークサイド
フェラーリの創業者エンツォ・フェラーリの伝記映画だが、しかし本作はあえて公私共にどん底だった特定の時期に物語の焦点を絞ることで、人間フェラーリの知られざるダークサイドを炙り出していく。前年に本妻との間の跡取り息子を病気で亡くし、一代で築いた会社も経営難に陥っていた’57年のフェラーリ。そんな彼が若い愛人との間にもうけた幼い次男の認知問題に悩み、経営再建のためにドライバーの命を軽んじてでもレースに勝たんとする。これを有り余る情熱ゆえの狂気と見るか、それとも単なる独善的な身勝手と見るか。終盤のレースシーンは確かに圧巻だが、しかし全体的にはメロドラマ色が強いため好き嫌いはハッキリ分かれるはずだ。
カーレースの世界から人生が見えてくる
ある人物の特定の時期にスポットを当てて、その人物の生を浮き彫りにするのは伝記ドラマの醍醐味。本作には確実に、そんな面白さが宿っている。
E・フェラーリの1957年、御年59歳時の4か月に焦点を絞り、栄光の光と影……というより、主に影の部分を描出。妻や愛人との二重生活、レースへの熱中、非情にも映る采配。それらをとおして彼が失ったものや失えなかったものが明らかになり、グッとくる。
M・マンらしいいつもながらの硬派演出は快調。驚いたのは40歳のA・ドライバーがフェラーリを演じていること。特殊メイクの効果があるにしても、このなりきりは凄い。
アダム・ドライバーでさえもペネロペに完敗
最愛の息子を失い、会社も倒産危機の中、離婚もできず、結局は愛人と彼女の息子との時間にうつつを抜かしている男の美学(ロマン)。ぶっちゃけ、資金繰りと認知問題に悩んでいるだけのチマチマした話だが、“マイケル・マン監督なりの『ゴッドファーザー』”として観ると一興だ。そんななか、悲劇のレーサー、アルフォンソ・デ・ポルターゴのエピソードに限っては、S・クレイグ・ザラー監督が撮ったようなヒリヒリとした肌触り。偶然にも次はコッポラと組むなど、巨匠たちに愛され、もはや無双状態のアダム・ドライバーだが、本作に至っては冷え切った関係の鬼嫁を演じたペネロペ・クルスに完全に喰われている。
P・クルスの演技は賞に候補入りするべきだったレベル
クライマックスのレースのシーンは迫力があり、ショッキング。事実、ミッレミリアはこのせいで中止になったのだ。だが、基本的には静かに展開する今作を引っ張るのは、ラウラ役のペネロペ・クルス。悲しみと怒りを抱え、躊躇なくそれを夫にぶつけてくるラウラは、激しく、怖くもあるが、同情できる。逆に主人公であるフェラーリは心を開かないキャラクターで、観る者は応援したいのかどうかよくわからない。その複雑な人物像にアダム・ドライヴァーも惹かれたのだろうが、映画自体が心を閉ざしてしまったような気も。演技のほかにレースにも情熱を注いできたパトリック・デンプシーがレーサー役でちらりと出演しているのはナイス。
速さのためなら死をも辞さないという美学
フェラーリの創始者エンツォ・フェラーリを題材に、より速い速度のためなら死をも度外視する、という心的状態かつ美学を持ち、それを実践する人間を描く。彼はそれを周囲の人々にも強要するので、悲劇も起き、軋轢も生じるが、その姿勢を変えない。この美学が、彼が創造する車の形にも、オペラを愛する嗜好にも通底する。それは監督マイケル・マンの美学でもあるのではないか。
そういう人物が自作の車を走らせるので、この映画のレースシーンは、誰が1位になるのかではなく、誰が死を度外視して速さを選ぶのかを描く。その切迫感、臨場感を、カメラが車の助手席からも撮影。緊迫した映像から、一瞬も眼を離すことができない。