ジョーカー (2019):映画短評
ジョーカー (2019)ライター11人の平均評価: 4.7
真の善意の体現者を描き本作に拮抗しうるヒーロー映画を待望する
共感と嫌悪が入り混じるが、紛れもなく21世紀初頭の世界を象徴する傑作だ。不寛容な社会で醸成される悲哀と絶望。愛など枯れ果てジョーカーが生まれるべくして生まれる様が、説得性を持ちつつ丹念に描かれる。バットマンとジョーカーが表裏の存在であることへの示唆は興味深い。ふと、敗戦直後の混沌を背景に、刑事と犯人に分かれた運命に言及する黒澤明の『野良犬』の台詞「世の中のせいにして悪い事をする奴はもっと悪い」を想起した。モラルで均衡を保つ状況を遥かに超える荒みきった今。真の善意を体現する者を描くことこそ、本作と現代社会へのアンサーだ。映画人は『ジョーカー』に拮抗しうるヒーロー映画を生み出さなければならない。
名優たちがチャレンジした悪役の原点とは?
DCスーパーヴィランの一人であるジョーカーのオリジンを創造性たっぷりに、かつ現代社会が抱える問題点も含めて描いたT・フィリップス監督の発想が物語に深みを与えている。ホアキンは精神的に破綻をきたしたキャラを演じるのが得意なので、ジョーカー役にハマったのも当然だろう。相当な減量でガリガリになった肉体を惜しげもなく晒し、悲しげな表情や不気味なダンスで孤独や心の歪みを表現する。ピエロ恐怖症の人は『IT』に続いてNGでしょう。ネグレクトや弱者に救いの手を差し伸べない社会を批判する演出はいいが、どうしても気になったのがメンタルヘルス問題。凶悪な犯罪者がみなそうとは限らないのでは?
“笑い”のテロルが世界を揺るがす!
バットマンに登場するヴィランを主人公にしているとはいえコミックに関する知識は必要ナシ。この主人公は存在を忘れられてしまうような、どこにでもいる一市民なのだから。
格差社会が引き起こす犯罪の多発や貧困化などの都市の不穏。そんな中で正気ではいられない危うさの果てに変貌する主人公を、他人事と見られるだろうか? そういう意味では『タクシー・ドライバー』のテーマにも通じる。
主人公は“笑い”に哲学を持ち、世の中のすべてはジョークでしかないと思えば、何でもできると悟る。このブレイクオンスルーのカタルシスはドラマ面での大きな魅力。これはヤバい。危険な映画ではあるが、見逃すわけにはいかない。
この映画こそが暴動だ!
世界を覆う憤懣鬱屈や階級差からくる抑圧からテロリズムが生じる過程をこんなに繊細に描いた作品があったろうか。バットマン神話を踏まえてはいるが、さほど関係ない(が、やがて究極のヴィジランテと対決する運命を思うと想像は羽ばたく)。むしろ、ここで描かれる「悪」がそもそも「悪」なのか?と、どうしてもジョーカー側に感情移入させてしまうのが本作最大のヤバさだ。そういう意味でかつての“タクシードライバー”が出演する意味は大いにある。ホアキンの没入演技は勿論、70年代アメリカン・ニューシネマを意識した撮影、音数少ない弦楽器と打楽器で不安を醸成する音楽、PTAの盟友マーク・ブリッジスの衣裳、すべてパーフェクト。
虐げられし弱者の怒りを代弁する究極のアンチヒーロー
治安が最悪だった’80年代初頭のN.Y.をゴッサムシティに見立て、障碍を抱えた心優しき売れないコメディアンが、弱肉強食の荒み切った非情な社会で差別され、バカにされ、見捨てられ、絶望の淵へと追いやられた挙句、悪の化身ジョーカーへ変貌していく姿を描いたDC版『タクシードライバー』。ほかにも、『キング・オブ・コメディ』や『フレンチ・コネクション』、『エクソシスト』などスコセッシおよびフリードキンの影響が色濃く感じられる。腐りきった世の中に堪忍袋の緒が切れた主人公が、狂気のごとく悪の道へと覚醒していく展開は、文字通り痺れるようなカタルシス。虐げられし弱者の怒りを代弁する究極のアンチヒーローだ。
トラヴィス、チャップリン、GGアリン
マジ凄いな。『ダークナイト』と真逆のアプローチから、全く同じ地平(出発点)に到達するのに痺れた。ヒース・レジャーのジョーカーは魂を吹き込まれたデジタルな自由意志。今回のホアキン・フェニックス(圧巻)は内面の深い深い闇を彷徨い、やがて荒んだゴッサム・シティ≒NYを暗い熱狂で包み込む。人生が「悲劇」から「喜劇」へと裏返ることで陽気な殺人者が誕生する。
通常は闇の構造にトラウマ語りを導入するとつまらなくなるが、本作は設計・芝居すべてが完璧で納得に導かれる。トッド・フィリップスは『全身ハードコア GGアリン』の初心が甦ったか。『タクシードライバー』『キング・オブ・コメディ』のデ・ニーロ出演にも拍手!
鋭く心に迫る、辛く、切なく、パワフルな傑作
アメコミのキャラを主人公にした映画に、ここまで感動させられるとは。その大きな理由のひとつは、これがアメコミとほぼ関係ないところにある。もちろんジョーカーは「バットマン」の悪役で、これはそのオリジンストーリー。今作でもウェイン一家と接点はあるが、そこは重要でない。これをジョーカーにせず、普通の一青年にしたところで、問題はないのだ。その一方、精神の病、虐待、福祉の状況など、シリアスな事柄に迫る今作を、あえてスタジオにとっては貴重なキャラクターでやってみたのは勇気があることで、そこは讃えたい。ホアキン・フェニックスは断然オスカー候補入りに値する。
アメコミ映画、さらなる高みへ
ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞はやはり伊達ではない。
『ダークナイト』、『ブラックパンサー』に続くアメコミ映画の大きなシンボルとしてこれからの映画の歴史に刻まれることでしょう。
ホアンキン・フェニックスのアカデミー賞も非常に可能性が高いのではないかと思います。
アメコミ映画、バットマン映画というくくりは絶対に外して一つのピカレスクロマンとして体験して欲しい映画です。
ジョーカーは、ひとりで踊る
ジョーカーが"ひとりで踊る者"として描かれる。ある男がジョーカーという存在に変貌するまでを描くが、変化は突然ではなく、徐々にやってくる。貧相で挙動不審な中年男は、少しずつ、お茶目で優雅な闇の貴公子へと変わるのだ。そのたびに男は奇妙な踊りをする。その時、彼は世界のどこにも属さず、ただ彼にだけ聞こえる音楽に身を委ねている。すると身体が優美な舞踏のように動く。その光景が美しく、その美に浸るために、自分がこれから何度もこの映画を見ることになるのが分かる。
この光景は、この映画が描くジョーカーというものの象徴でもある。ジョーカーは自分の踊りをし、人々はその姿にいろんな意味を読み取ってしまうのだ。
取扱注意な劇薬映画!
舞台は1980年代初頭のNYにしか見えないゴッサムシティ。主人公が憧れる大物コメディアンをデ・ニーロが演じることで、『キング・オブ・コメディ』~『タクシー・ドライバー』のオマージュ大会と化す。『ハング・オーバー』で“笑いと恐怖は紙一重”を描いたトッド・フィリップス監督だが、本作では『8 Mile』『ザ・ファイター』の脚本家スコット・シルヴァーとチャップリンなどのアイコンを使い、徹底的に“喜劇と悲劇は紙一重”を描写。どこか『レクイエム・フォー・ドリーム』にも近い負のスパイラル&リアリティは、圧倒的なホアキンの芝居と融合し、DCEUのダーク路線とは明らかに異なる、取扱注意な劇薬映画が誕生した!
過去のジョーカーも忘れる、ホアキンのワンマンショー
タイトルロールとはいえ、これほどまで、ほとんどすべての場面に主人公が登場する映画も珍しい。その結果、否が応でも主人公=アーサーの感情や感覚に引きずり込まれることになる。他人とは違う瞬間に笑ってしまう彼の「特徴」が奇妙な違和感としてドラマに作用し、心をざわめかせ続け、ぎこちない肉体から繰り出されるホアキンのダンスも味わい深く作品をいろどる。
ミュージカルファンには有名な、S・ソンドハイムの名曲「悲しみのクラウン」は、クラウン=ピエロということで使われるが、美しいメロディと作品のミスマッチ感が不思議な余韻を残すことに成功。作品全体の「まとまり方」といい、過去のアメコミ映画とは明らかに異質な後味。